2008年08月16日
戦中・戦後の思い出を大切に「せいくらべ」森下小学
昨日は、昭和20年8月15日からかぞえて63年目となる記念すべき日でした。
以前から我ら戦中派にとっては、何ものにも代え難い記念すべき日として、近年始めたブログに書き込む事としていたが、何せこの暑さとたまたま続く用事が重なりさすがの小生もダウンとなり22時には休むこととした・・・
★今朝は、ネットで依頼されていた五匹のねこちゃんの餌やりに出かけた。朝の5時30分、三保の先端に近いところまで約25分、目指す猫ちゃんは警戒して中々餌を食べにこない・・・何とか四匹がきておそるおそる食べ始めた。残る一匹が現れない・・・。
実は、これから15日の教会祝い日の奉仕に大井川に行く日なのだ、リミットは6時30分。一皿を残し他を洗い飲み水も用意して出発。
普段は、家を6時30分に出て安倍川を渡るのが7時丁度がバロメーター。少し3分ほど早く通過。やれやれといった感じ・・・
★ところが、意外な伏線に襲われていたこのとろろ膝のくっせっや痛みがあって自転車が漕げない、しばらくは右足だけで乗っていたが、今朝は違う、股関節の神経がビンビンでくぼみに車が通過しても神経が痛むこんな体験は初めてだ・・・余程途中で止めようかと思ったが何とか、車の混雑も盆休みのせいか予定より15分位早く到着した。車を降りて歩くだけでも、相変わらず痛みは神経にくる。皆が心配してくれていたが、何とか余り歩き回らず、じっと耐えて駐車場の案内に当たった。
★来館される人々に、手を振り、いつもなら最敬礼するところが無理だった。やむを得ず、頭だけの挨拶で「お早うございます」の挨拶も力が入らない・・・お盆の休みを利用した方々はいつもより多く、200台余の盛況です。
風は、少々あってもさんさんと降り注ぐ真夏の太陽は遠慮会釈もなく照りつけていた。やむを得ず昼食後の早退で帰宅した
因みに、本日の歩行歴3599歩でした。勿論夕食の猫ちゃん訪問もいたしました。やはり五匹目が来ない。この餌やりは海外旅行に行かれた方のご依頼で9日間の朝夕です。
そんなこんなで床を引いて休むのが精一杯でブログも無理でした・・・。
★少し、余談が長くなりましたが、表題の記念誌は「せいくらべ」私たちの戦中戦後・・・です。平成17年12月初版。
この中からは漏れた内容の投稿記事を何回かに分けて書き込みしてゆきます。
★◎この文章は、小生が古希を迎えて同級生から文集に原稿をということで、丁度五年ほど前に書いたものです。薄れ行く記憶と共に、年々少なくなる友人や先生の思い出を残してゆく使命感のようなものを感じて居ります。昭和一桁のグループの人たちにも末永くお元気でと願うものです。お陰さまで立派な文集「せいくらべ」の出版されたこともご報告いたします。
「人生七十古希稀なり」
第12回静岡市森下小学校卒業同窓会の諸兄こんにちわ
★新年明けましておめでとう この歳になって本当に目出度いか?なんて思う人も居るようだが、叉一つ歳を重ねて老いたと思う人、仕合わせに子供や、孫や曾孫に囲まれて人生の余生を感じている人と様々ではあるが何れにせよ人生の峠を越えて、まずまず七十歳の大きな年の瀬を迎え、更に言えば21世紀と言う大きな節目の年に古希を迎えることが出来た諸兄と共に先ず以ておめでとうと言おう。
昭和の一桁に生まれ、戦中、戦後を味わった仲間に改めて親近感を覚える、遠い昔の思い出も日頃思う事のない事柄をたどり、今回の文集作成のチャンスをくれた井口君始め編集諸兄に感謝しながら断片的な拙文をご披露するものです。
★小生は現在、第二の成人式を迎えたと思うのです。
五十歳、再スタートの人生を痛感している。
ネット上のHPにも掲載していますが1931年3月2日誕生、東西の壁を打ち砕き世界の緊張緩和を確立された偉大なる人物、ゴルビーさんと奇しくも全く同じ日の生まれです。
何故こんな事を言うかと言えば、何か彼と共通点のようなものを感ずるからだ。
小生、小学三、四年生位までは近所のガキ大将、別名「喧嘩の大将まっこちゃん」だった。
諸兄の中には随分と厭な思いをして通学した友も居たのではと、今更ながら、心底悔いるものである。然し、それでも一本筋を通しての正義感のようなものを自身でも感じていたが、時として先生も、友達も、どうにも手が付けられなかった低学年時代を強く反省している。
★静岡の大火と言えば昭和15年1月15日。当時火元の壱番町方面から馬が跳ねた様な形で焼けこげた街まちをみて、人々は馬の祟りなんて云われていた。
焼け広がる火の手は、早々鉄道線路を越えて駅南に飛び火、女子商業が燃えていると大騒ぎになっていた。小三だったが、昼の弁当も食べずに皆、家に帰った、火の勢いは強く、
当時、南町四丁目の長屋は(杉山大工の借家、英ぼうちゃんの家)焼けなかったが、中田の方の田圃に昼の弁当を持って避難した。田圃の中で食べたお袋の弁当の味は忘れられない、のり弁だった。
間もなく、焼け落ちた森下小から分散して「中田小」と「西豊田小」へ分かれての通学
となった。余りにも大きな火災で國の内外からの見舞い品が数多く寄せられ、学用品、鉛筆、ノート等々が毎日のように給付されたのを覚えている。
小生の家は幸いにして焼けずに済んだ。然し、この給付には差が付いた、これを不満として、教室で給付が始まると、貰いが少ないと云うことで大暴れして、机の上を飛んで歩き
女の先生を困らせたことを覚えている。皆さんご免なさいネ!。
クラスの友達にも、折りたたみのナイフを横半分に折って見せたり、悪さの有りっ丈をして粋がっていたものです。
五年生の男女組になる前に同じ組でいた友達にも心からお詫びいたします。
★森下小での思いでは数々有りますが、大石先生との出会いが人生を開花させて下さったものと本当に感謝申し上げております。そして、イタズラ小僧を心配して、先生にお願いして日参した、陰の立て役者「お袋さん」のことを忘れることは出来ない。かーちゃん有り難う。後に、先生には仲人もお願いしました。ご冥福心から祈願致しております。
全ての悪ガキは、小四で卒業しました。成績もぐんぐんと上がり、男子校二年では工作室の先生の代理として一年生の指導もさせて貰いました。
暖かい同級生の諸兄と出会えた森下小の五年、六年は本当に忘れられません。
クラス会で会っても、厭な顔ひとつせずに同席される皆さんに心から有難うと申し上げます。
森下小、戦災最後の日。B29の落とす焼夷弾、大型爆弾の雨降るなかで当時十五歳の小生、予科練合格、胸躍る思いで入隊日を待つ。そんなとき、B29が静岡上空を襲った。
学校の校庭に掘られた大型防空壕。空襲と共に降り注ぐ火の海と化した校庭を逃げ惑う人々、為すすべはない。大人も、子供も、男も、女性も逃げ惑う地獄絵だ。
小生は、少年ながら是は一大事と、大声を上げて人々を誘導して歩いた事を今でも鮮明に
思い出す。この空襲で、英ぼうちゃん一家は直撃弾にて帰らぬ人となりました。無念!
是より少し前「予科練の二次試験」のため霞ケ浦の航空隊に行ったときのこと、一年先輩だった「野球投手」の若杉さんと記憶しているが、以前は話もしたことも無かったのに
懐かしそうに向こうから声をかけられて「オイ!お前甘いもの持ってないか?」と、云われたことを思い出す。七つボタンの軍服こそ着て凛々しい姿でも、まだまだ子供だった。
当時は、軍隊に志願しなければ、満州の開拓団へ、女子は挺身隊として國のために命を捧げて報国を誓ったものだった。
★歌う歌は「君が代」「明治天皇の御詠」吉田松陰の獄中詩などなど・・・
「かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂」
「親思う 心にまさる親心 今日の訪れなんと きくらん」(お袋さんも時々謡っていた)
先日、会合の後二次会で「海ゆかば」を歌ったら何と百点だった。笑い!
叉、この空襲以来消息の無い多くの友人の一人、稲川町に住んでいた河合荘介君を知りませんか。彼は、満蒙開拓団でシベリヤ送りか?。親しくしていた友人達に、無念の涙を禁じ得ません。この戦争による犠牲者に改めてご冥福をお祈りします。
三組の中で、早く別れた「深沢良一君、片岡義昭君」のご両親に捧げます。
戦後間もなく亡くなられた友を悼む詩
「若き日に 残せし親の寂しさと 幼き友の心ぞ哀れ」
◎以上、本日はこれまでとします、近いうちに(2)をご覧ください。
書込などいただけたら幸甚です、暑さの中御身大切にしてください。
江尻のまっこちゃん HPもリニューアルしていますワンクリもお願いします。
現在、静岡県ミニバナリンクTOPです。ありがとう
以前から我ら戦中派にとっては、何ものにも代え難い記念すべき日として、近年始めたブログに書き込む事としていたが、何せこの暑さとたまたま続く用事が重なりさすがの小生もダウンとなり22時には休むこととした・・・
★今朝は、ネットで依頼されていた五匹のねこちゃんの餌やりに出かけた。朝の5時30分、三保の先端に近いところまで約25分、目指す猫ちゃんは警戒して中々餌を食べにこない・・・何とか四匹がきておそるおそる食べ始めた。残る一匹が現れない・・・。
実は、これから15日の教会祝い日の奉仕に大井川に行く日なのだ、リミットは6時30分。一皿を残し他を洗い飲み水も用意して出発。
普段は、家を6時30分に出て安倍川を渡るのが7時丁度がバロメーター。少し3分ほど早く通過。やれやれといった感じ・・・
★ところが、意外な伏線に襲われていたこのとろろ膝のくっせっや痛みがあって自転車が漕げない、しばらくは右足だけで乗っていたが、今朝は違う、股関節の神経がビンビンでくぼみに車が通過しても神経が痛むこんな体験は初めてだ・・・余程途中で止めようかと思ったが何とか、車の混雑も盆休みのせいか予定より15分位早く到着した。車を降りて歩くだけでも、相変わらず痛みは神経にくる。皆が心配してくれていたが、何とか余り歩き回らず、じっと耐えて駐車場の案内に当たった。
★来館される人々に、手を振り、いつもなら最敬礼するところが無理だった。やむを得ず、頭だけの挨拶で「お早うございます」の挨拶も力が入らない・・・お盆の休みを利用した方々はいつもより多く、200台余の盛況です。
風は、少々あってもさんさんと降り注ぐ真夏の太陽は遠慮会釈もなく照りつけていた。やむを得ず昼食後の早退で帰宅した
因みに、本日の歩行歴3599歩でした。勿論夕食の猫ちゃん訪問もいたしました。やはり五匹目が来ない。この餌やりは海外旅行に行かれた方のご依頼で9日間の朝夕です。
そんなこんなで床を引いて休むのが精一杯でブログも無理でした・・・。
★少し、余談が長くなりましたが、表題の記念誌は「せいくらべ」私たちの戦中戦後・・・です。平成17年12月初版。
この中からは漏れた内容の投稿記事を何回かに分けて書き込みしてゆきます。
★◎この文章は、小生が古希を迎えて同級生から文集に原稿をということで、丁度五年ほど前に書いたものです。薄れ行く記憶と共に、年々少なくなる友人や先生の思い出を残してゆく使命感のようなものを感じて居ります。昭和一桁のグループの人たちにも末永くお元気でと願うものです。お陰さまで立派な文集「せいくらべ」の出版されたこともご報告いたします。
「人生七十古希稀なり」
第12回静岡市森下小学校卒業同窓会の諸兄こんにちわ
★新年明けましておめでとう この歳になって本当に目出度いか?なんて思う人も居るようだが、叉一つ歳を重ねて老いたと思う人、仕合わせに子供や、孫や曾孫に囲まれて人生の余生を感じている人と様々ではあるが何れにせよ人生の峠を越えて、まずまず七十歳の大きな年の瀬を迎え、更に言えば21世紀と言う大きな節目の年に古希を迎えることが出来た諸兄と共に先ず以ておめでとうと言おう。
昭和の一桁に生まれ、戦中、戦後を味わった仲間に改めて親近感を覚える、遠い昔の思い出も日頃思う事のない事柄をたどり、今回の文集作成のチャンスをくれた井口君始め編集諸兄に感謝しながら断片的な拙文をご披露するものです。
★小生は現在、第二の成人式を迎えたと思うのです。
五十歳、再スタートの人生を痛感している。
ネット上のHPにも掲載していますが1931年3月2日誕生、東西の壁を打ち砕き世界の緊張緩和を確立された偉大なる人物、ゴルビーさんと奇しくも全く同じ日の生まれです。
何故こんな事を言うかと言えば、何か彼と共通点のようなものを感ずるからだ。
小生、小学三、四年生位までは近所のガキ大将、別名「喧嘩の大将まっこちゃん」だった。
諸兄の中には随分と厭な思いをして通学した友も居たのではと、今更ながら、心底悔いるものである。然し、それでも一本筋を通しての正義感のようなものを自身でも感じていたが、時として先生も、友達も、どうにも手が付けられなかった低学年時代を強く反省している。
★静岡の大火と言えば昭和15年1月15日。当時火元の壱番町方面から馬が跳ねた様な形で焼けこげた街まちをみて、人々は馬の祟りなんて云われていた。
焼け広がる火の手は、早々鉄道線路を越えて駅南に飛び火、女子商業が燃えていると大騒ぎになっていた。小三だったが、昼の弁当も食べずに皆、家に帰った、火の勢いは強く、
当時、南町四丁目の長屋は(杉山大工の借家、英ぼうちゃんの家)焼けなかったが、中田の方の田圃に昼の弁当を持って避難した。田圃の中で食べたお袋の弁当の味は忘れられない、のり弁だった。
間もなく、焼け落ちた森下小から分散して「中田小」と「西豊田小」へ分かれての通学
となった。余りにも大きな火災で國の内外からの見舞い品が数多く寄せられ、学用品、鉛筆、ノート等々が毎日のように給付されたのを覚えている。
小生の家は幸いにして焼けずに済んだ。然し、この給付には差が付いた、これを不満として、教室で給付が始まると、貰いが少ないと云うことで大暴れして、机の上を飛んで歩き
女の先生を困らせたことを覚えている。皆さんご免なさいネ!。
クラスの友達にも、折りたたみのナイフを横半分に折って見せたり、悪さの有りっ丈をして粋がっていたものです。
五年生の男女組になる前に同じ組でいた友達にも心からお詫びいたします。
★森下小での思いでは数々有りますが、大石先生との出会いが人生を開花させて下さったものと本当に感謝申し上げております。そして、イタズラ小僧を心配して、先生にお願いして日参した、陰の立て役者「お袋さん」のことを忘れることは出来ない。かーちゃん有り難う。後に、先生には仲人もお願いしました。ご冥福心から祈願致しております。
全ての悪ガキは、小四で卒業しました。成績もぐんぐんと上がり、男子校二年では工作室の先生の代理として一年生の指導もさせて貰いました。
暖かい同級生の諸兄と出会えた森下小の五年、六年は本当に忘れられません。
クラス会で会っても、厭な顔ひとつせずに同席される皆さんに心から有難うと申し上げます。
森下小、戦災最後の日。B29の落とす焼夷弾、大型爆弾の雨降るなかで当時十五歳の小生、予科練合格、胸躍る思いで入隊日を待つ。そんなとき、B29が静岡上空を襲った。
学校の校庭に掘られた大型防空壕。空襲と共に降り注ぐ火の海と化した校庭を逃げ惑う人々、為すすべはない。大人も、子供も、男も、女性も逃げ惑う地獄絵だ。
小生は、少年ながら是は一大事と、大声を上げて人々を誘導して歩いた事を今でも鮮明に
思い出す。この空襲で、英ぼうちゃん一家は直撃弾にて帰らぬ人となりました。無念!
是より少し前「予科練の二次試験」のため霞ケ浦の航空隊に行ったときのこと、一年先輩だった「野球投手」の若杉さんと記憶しているが、以前は話もしたことも無かったのに
懐かしそうに向こうから声をかけられて「オイ!お前甘いもの持ってないか?」と、云われたことを思い出す。七つボタンの軍服こそ着て凛々しい姿でも、まだまだ子供だった。
当時は、軍隊に志願しなければ、満州の開拓団へ、女子は挺身隊として國のために命を捧げて報国を誓ったものだった。
★歌う歌は「君が代」「明治天皇の御詠」吉田松陰の獄中詩などなど・・・
「かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂」
「親思う 心にまさる親心 今日の訪れなんと きくらん」(お袋さんも時々謡っていた)
先日、会合の後二次会で「海ゆかば」を歌ったら何と百点だった。笑い!
叉、この空襲以来消息の無い多くの友人の一人、稲川町に住んでいた河合荘介君を知りませんか。彼は、満蒙開拓団でシベリヤ送りか?。親しくしていた友人達に、無念の涙を禁じ得ません。この戦争による犠牲者に改めてご冥福をお祈りします。
三組の中で、早く別れた「深沢良一君、片岡義昭君」のご両親に捧げます。
戦後間もなく亡くなられた友を悼む詩
「若き日に 残せし親の寂しさと 幼き友の心ぞ哀れ」
◎以上、本日はこれまでとします、近いうちに(2)をご覧ください。
書込などいただけたら幸甚です、暑さの中御身大切にしてください。
江尻のまっこちゃん HPもリニューアルしていますワンクリもお願いします。
現在、静岡県ミニバナリンクTOPです。ありがとう