2010年11月04日
旅の達人・中西 大輔氏受賞
中西 大輔と聞いてもピント来る人は少ないと思いますが・・・昨日は「文化の日」秋の叙勲で晴れやかな栄誉を受け多くの叙勲者が喜びの一日を祝福されたことと思います。<br>

少し、趣は違いますが少し前にNHKで取り上げられた異色の「冒険家」の事を思い出してブログ記事にしてみました。
「植村 直己冒険賞」を受賞された「旅の達人」中西 大輔氏について当時の記録を追ってみたいと思います。
直巳冒険賞は 過去には、登山、ヨット、極地徒歩行などで数々有るようですが、今回の受賞は異色の人となるようです。
受賞の冒険内容は自転車で世界を廻る(因みにその足跡は、地球2周、130ヶ国、11年間で15万キロメートル)そして彼は、無名であった。
日本を出発して11年間、その間3回程帰国しているようだが・・・それは、やむない事情と言うか自転車の手入れとかが主で、何せ300回もパンクして修理、時にはアンデスの山中に車で転倒自身も怪我をして、愛車も壊れてしまい途方に暮れているとき親切なトラックの運転手さんに助けられ、300キロも離れた都市まで高速運転で送ってくれた親切な人に助けられた。このときは、車のリブが破損してしまい、走れない状態であった。この愛車は勿論日本製の特注車、リムも何処の国に行っても良いように世界中で手に入るタイヤの使えるモノにしていた、荷台は前後に付けた特製自転車、更にこれだけのパンク修理に欠かせないモノは、空気入れなのだが斯うしたモノの手入れには格別の注意をしている。この空気入れは、ホントに小さいモノで水鉄砲を想像したらお分かりかと思います。
日本に帰るのは、パスポートや、キャッシュカードの書き換えのためとか・・・
旅の始めには、三年ほどの旅にゆくと言って出国した。船に乗ったり、飛行機以外は全てサイクル、前後に大きな荷物を積み荷重は全体で50キロ、本人の体重を70キロ合わせて120キロを可成りの山道以外は乗って走った。砂漠も山も泣きながらの旅だったようだ・・・
砂漠のテント内に居たときに、二頭のハイエナに長い時間吠えられて恐ろしい思いをした。
10年一昔と言うが、そんな長い間世界中を旅をする思いとは何なのか考える。
初めの資金は学生時代から少しずつ仕事をして貯めたお金を持って出掛けた。仕事が有ったわけでもなく当然、収入はゼロ・・・
そんな日々の暮らしは大変なモノだったようだ。出来るだけテント暮らしで節約して居た。
33歳の頃、アラスカをはじめ、五大陸を巡り、62国となったが後3年は走りたいと云う。目標は120ヶ国以上、小さい頃の夢は「六太陸走破、自転車で世界一周」はじめは3年で60ヶ国をと計画したが・・・11年となり、パンクは300回以上、チェーン15回、タイヤ82本、ペタル5回。相棒は自転車。計画は28歳からスタートする。それまでに600万円の貯金、大学卒後、住宅会社で5年間勤務。廻った国は、北中南米、欧州、アフリカ、アジア、オセアニア、中東、などを一日100キロから150キロを走行、旅の思いでは限りない・・・本来人の好きな中西さん、そして自転車好きな中西さんそして自転車好きな旅人、世界の人々と交流し裸の付き合いで言葉は分からなくても人々の優しさや親切は身にしみているようだ。自転車は荷物と共に120キロ以上あり重くて盗難には合わなかった。

植村直巳賞の他、JACC 日本ペダリアン大賞を受賞している。本年6月11日ゴール地点の大阪市に到着、この賞は日本アドベンチャー・サイクリストクラブが贈呈した。
1998年7月より2010年6月11日帰国までに151.849キロ。当年39歳 兵庫県川西市在住
旅の達人・中西 大輔氏の偉業を讃え少年時代の夢を更に一歩前進されることを祈ります。
江尻のまっこちゃん 人生に自らの夢を持つ男に!! 当年80歳の現役仕事人より・・・

少し、趣は違いますが少し前にNHKで取り上げられた異色の「冒険家」の事を思い出してブログ記事にしてみました。
「植村 直己冒険賞」を受賞された「旅の達人」中西 大輔氏について当時の記録を追ってみたいと思います。
直巳冒険賞は 過去には、登山、ヨット、極地徒歩行などで数々有るようですが、今回の受賞は異色の人となるようです。
受賞の冒険内容は自転車で世界を廻る(因みにその足跡は、地球2周、130ヶ国、11年間で15万キロメートル)そして彼は、無名であった。
日本を出発して11年間、その間3回程帰国しているようだが・・・それは、やむない事情と言うか自転車の手入れとかが主で、何せ300回もパンクして修理、時にはアンデスの山中に車で転倒自身も怪我をして、愛車も壊れてしまい途方に暮れているとき親切なトラックの運転手さんに助けられ、300キロも離れた都市まで高速運転で送ってくれた親切な人に助けられた。このときは、車のリブが破損してしまい、走れない状態であった。この愛車は勿論日本製の特注車、リムも何処の国に行っても良いように世界中で手に入るタイヤの使えるモノにしていた、荷台は前後に付けた特製自転車、更にこれだけのパンク修理に欠かせないモノは、空気入れなのだが斯うしたモノの手入れには格別の注意をしている。この空気入れは、ホントに小さいモノで水鉄砲を想像したらお分かりかと思います。
日本に帰るのは、パスポートや、キャッシュカードの書き換えのためとか・・・
旅の始めには、三年ほどの旅にゆくと言って出国した。船に乗ったり、飛行機以外は全てサイクル、前後に大きな荷物を積み荷重は全体で50キロ、本人の体重を70キロ合わせて120キロを可成りの山道以外は乗って走った。砂漠も山も泣きながらの旅だったようだ・・・
砂漠のテント内に居たときに、二頭のハイエナに長い時間吠えられて恐ろしい思いをした。
10年一昔と言うが、そんな長い間世界中を旅をする思いとは何なのか考える。
初めの資金は学生時代から少しずつ仕事をして貯めたお金を持って出掛けた。仕事が有ったわけでもなく当然、収入はゼロ・・・
そんな日々の暮らしは大変なモノだったようだ。出来るだけテント暮らしで節約して居た。
33歳の頃、アラスカをはじめ、五大陸を巡り、62国となったが後3年は走りたいと云う。目標は120ヶ国以上、小さい頃の夢は「六太陸走破、自転車で世界一周」はじめは3年で60ヶ国をと計画したが・・・11年となり、パンクは300回以上、チェーン15回、タイヤ82本、ペタル5回。相棒は自転車。計画は28歳からスタートする。それまでに600万円の貯金、大学卒後、住宅会社で5年間勤務。廻った国は、北中南米、欧州、アフリカ、アジア、オセアニア、中東、などを一日100キロから150キロを走行、旅の思いでは限りない・・・本来人の好きな中西さん、そして自転車好きな中西さんそして自転車好きな旅人、世界の人々と交流し裸の付き合いで言葉は分からなくても人々の優しさや親切は身にしみているようだ。自転車は荷物と共に120キロ以上あり重くて盗難には合わなかった。

植村直巳賞の他、JACC 日本ペダリアン大賞を受賞している。本年6月11日ゴール地点の大阪市に到着、この賞は日本アドベンチャー・サイクリストクラブが贈呈した。
1998年7月より2010年6月11日帰国までに151.849キロ。当年39歳 兵庫県川西市在住
旅の達人・中西 大輔氏の偉業を讃え少年時代の夢を更に一歩前進されることを祈ります。
江尻のまっこちゃん 人生に自らの夢を持つ男に!! 当年80歳の現役仕事人より・・・